田中校長が、池田中学校の校歌について、ふれあいの日で紹介した原稿です


地域・学校の宝「校歌」を高らかに、大声で歌いましょう

平成19年11月4日 ふれあいの日

 入学式・卒業式など学校での大事な式では、必ず歌う校歌。池田中学校の校歌をどんな想いで歌っていますか。作詞、作曲者名は知っていても、どんな人なのか、どんなことを想い作ってくれたのかなど校歌のできたいきさつは知らないと想います。

1 校歌の作詞は、池田中学校の創立に伴い池田小学校から赴任した林 知一先生です。林先生は昭和22年から昭和33年まで地元出身(中発知町)の先生として理科を専門 に熱心に教えてくださっていました。

 本人執筆の作詞の動機によると、次のように書かれています。

「(旧)沼中に入学の日、桜下に国歌につづいて校歌の斉唱、この時中学生になれたという感動と校風の素晴らしさに魅せられた。戦中工場に勤務日に増す出征兵士の壮行会に招待され何度も皆して唱えることの楽しさと力強さを知った(越中おはら節・富山県)そして、郷里の池田を見るとき、何一つの村民挙げて唱えるような歌がなく、せいぜい草津節の替え歌でも歌えば、おほめにあずかるような情勢下であった。ここで思ったのは、村民皆でうたえる歌が欲しい。自分は先生だから先ず生徒(同窓生となる人々)全員が歌えるもの校歌が先決と気づいた。」というのが作詞の動機だったそうです。

2 作曲の松井八郎先生は、池田中学校に昭和27年から昭和34年まで勤めていた林先生の同僚の岡村六合子先生の実の弟さんで、フランスで勉強され、当時各ラジオ局より数々のヒット曲を発表され日本作曲界のホープでした。林先生は、自分で作った歌詞を松井八郎先生に手紙をそえて送りました。「若しこの詩でよかったら生徒の為、是非作曲して下さい。但し、謝礼金は学校には壱円もありません。先生お願いできますか。」しばらくして松井先生からご返事を頂きました。「先生(林)の意気に感じました。詩もその意気が満ちてます。勿論、謝金などいりません」と快諾下され、作曲してくださいました。やがて故人となられた松井八郎先生は、いつまでも林先生の心の中にあり、ずっと感謝しつづけていたそうです。

3 歌詞の内容について、林先生は次のように書いています。
(1)一番は、この清涼な郷土に生まれた幸に感謝し、その清らかな地に教養を深め立派な人格を養成していきたいと願う私の心(親・村民一同)を詩ったつもりです。
(2)二番は、青春の血にもえる若人たちよ、かく学び、かく伸びて下さい。一生懸命やりましょう。そして、青春をたくましく、明るく希望に輝く美しい瞳をもとうというような願いからです。
(3)母校を去り進学に、社会人に進展する人生であるけれど母校を常に懐にして貴下も大成して下さい。それは母校にとっても大変うれしいことです。校名も永く栄えあるようにと願ったものです。

4 校歌の作詞はいつごろ思いつき、どうしたか
 本人の執筆原稿によると、昭和25年頃からおこがましいと思いましたが、ひそかに作詞に着手を始めました。机の隅に書いては訂正、約三年後国語の先生に「実は校歌の詩案があるが、どんなものか」と相談しました。国語の先生は早速模造紙に歌詞を大書きされました。昭和27年の年末だったと思います。
 その後、職員会に図りまして何か修正あればと、お願いのつもりでだした詩が、一字の訂正もなく可決され、校歌の歌詞となってしきったということです。

5 作詞の内容で、今でも林先生が気にかかること
(A)一番の雲青く 二番の蒼い空   「あおい」という言葉を何とかして一字ですませたいと思ったけれど、雲青くの青は美しい池田の天地であり、蒼い空の蒼いは、人々の美しさを示すもので捨てることができませんでした。三番の赤き瓦屋・・・・今は鉄骨の素晴らしい校舎、僅かに体育館の屋根にみるだけになってしまった。と作詞から約半世紀たった心境を書かれています。

6 林先生本人の反省として
「言葉が少し難しいのではないか。性急の私の性格がですぎてはいまいか。一番二番はまあまあとして、三番には特に固い詩語になっていまいか。まだまだありますけれど。」ということです。

7 作曲ができて郵送されたときのこと (林先生が当時を想い出して)
 昭和28年3月23日第6回卒業証書授与式の三日前の午後、速達で松井八郎先生から曲が送られてきました。岡村六合子先生が早速私を呼び、二度ほど弾いて下され、「林先生この曲で気に入らぬところはありませんか。遠慮なく言って下さい」といわれましたけれど音符の読めない私は、有り難うございました。というだけ。曲は鉛筆で五線紙の上に走り書きされており、松井先生のお忙しさもしのばれました。唯一曲の上に「雄大に」と書かれているのと若いホープの情熱を深く感じました。その時の私もまだ若かったのでした。

 卒業式に校歌の斉唱が行われましたが、それに先立ち全校生徒の前で私は作詞者として学校長より謝辞と大学ノート一冊を謝品として贈られ忘れぬうれしさを覚えています。作曲の松井先生には、速達料や用紙代として職員会計をたたいて 約千円程校長より贈っていただきました。

・昭和27年度頃新制中学校で校歌を持ったのは、利根、沼田で池中だけです。
・昭和28年11月3日 池田中学校校歌制定発表会行われる。(沿革誌より)
・昭和28年12月5日 池中が駅伝県大会で優勝(前橋県営グランド)選手を囲み喜びの第一声は岡村六合子先生指揮の校歌斉唱でした。当時の駅伝選手は、3年羽鳥幾夫さん中発知町、3年江ノ島光幸さん佐山町、3年戸部利雄さん佐山町、2年大河原康夫さん奈良町、2年大竹昶好さん岡谷町、3年関捨夫さん佐山町の6名です)当時の駅伝は強く、昭和27年3位 昭和28年優勝 昭和29年4位でした。
・沼中で行われた市内各中学校の野球試合のとき、沼中に負けはしましたが、シーソーゲーム、池中の生徒はできたての校歌を大きい声で歌い、一生懸命応援したということです。池田中学校の校歌の素晴らしさを沼中に見せつけたと語り継がれています。

8 林先生が今でも気になること
  各校も次々と校歌をつくっていきました。中央の大先生方の作詞・作曲であるだけに誠になめらかな校歌が多く、当たりさわりのないような、うまみのあるものばかりです。池中に限り、素人のごとき作詞、フランス音楽家の作曲、取り合わせが妙であると思いますと執筆しています。

以上が校歌のできたいきさつです。

 池田中学校校歌のできた経緯がわかったところで、校歌の歌詞の意味をよく考えて、もう一度校歌に向かってみてください。そして、誇りをもって堂々と校歌を歌いましょう。
  それではみなさん、作詞、作曲者の思いを込めて、大きな声でさあ歌いましょう。